題名「ショウソウ」

自分という人間を理解されないことが一体どれほどの重圧になるというのか。


部屋は酷く散乱している。
昨日食べたスナックの袋は油にまみれて光っている。
ゴミのように故人たちの小説が詰まれている。
しかしそれらを片付ける気力は私にはない。


それは一つの冗談から始まった。
ある日の昼休み。その前の授業は国語で先生に私の小論文が褒められた後だった。
「お前って文章うまいんだから、小説家目指してみたら?」
私はもともとそういう願望を持っていた。
そしてその一言がきっかけに願望は止まらなくなり、気持ちはそういう形に塗り固められた。
友達に話した。
先生に話した。
親に話した。
だけどみんなは笑ってばかり。
確かに私は目立ってすごい人間性を持ってるわけでもないし、考えだってありきたりだ。
だけどなんでそんな目で私の事を笑うんだろう。
私は理解者が得られないまま気持ちを大きくしていった。
そしてその冗談から数週間で人との接触を避け自分の部屋に閉じこもりだした。
ひどい不安や絶望を抱えながらそれでも向上心に燃え。


私はもともと自分のパソコンを持ち、高校の宿題などの小論文や作文などは作っていたので自然とそれを媒体として取り入れていった。
最初のうちはひたすら小説を書いていた。
どうも恋愛物とかライトノベルとかは苦手だったので、思想や訴えを主とした小説ばかり。
でもどうも自分の本当に伝えたいこととのずれを感じ書いては消す作業の繰り返し。
そしてふとネット上の小説が気になりアクセスすることにした。
とはいっても大半は私の苦手とする感情や思想を動かすことを目的としない恥ずかしくなるようなものばかり。
しかし私はどこをどういったかさえ覚えてない検索の繰り返しの中一つのページを見つけた。
「ショウソウ」
そのそっけないページに私は何故か惹かれた。
そしてそこにおいている文章を見て酷く感動した。
そこにはありとあらゆる偏見を捨てた上の感情で溢れていた。
文章は酷く美しく、震えるほど繊細だ。
こんな文章を書く人間がネット上で埋もれて生きているのか……
小説関係のコミュニティにも、もちろんネット上でのウェブページとしての話題のなかでさえ全く話題として取り上げられてないまさに数多と在る知られていない個人ページだった。
真っ白なページに小説へと続くメニュー以外には何一つなく、その小説でさえ取り立てて作者からの説明が在るわけでもない。
しかしそこには確かに感動が存在し、私という普遍性に満ちた存在でさえ涙で気持ちが軽くなるような気がした。
そしていつしか私自身小説を書くのをやめそのサイトをひたすら読むようになった。
読んでいくうちに現実にいる感覚が次第に気薄になる。
まるで私はディスプレイが目になっている酷く薄っぺらい生物のように。


そして気づけば今ここにいる。
この真っ黒な文章の中で疼いている。
私はもうすでに肉体と精神を完全に分離させてしまったようだ。
「ショウソウ」
最初は分からなかった。
なぜそんな名前なのか。
焦燥。尚早。
どれをとってもぴんとこなかった。
しかし今この文章の流れに身を任せていると分かる。
称そう。
私たちは何かに称して生きているのだと。
しかしその状態を維持しなければ。
ましてや気づいてしまえば私のように自分の姿に圧倒されてしまうのだ。
つまりは肉体は自分というものを形作るための材料に過ぎない。
全てを感覚として把握するには人間は弱すぎるから。
称そう。
私はつまりそういう作者の祈りに気づけずに堕ちてしまった堕落者なのだろう。
この世の中に溢れる言葉の中に私は存在する。
例えばあなたがこの文章を読んでいる限り。
何かを称して生きている限り。