目の無い魚がいるという

僕はどこにいるんだっけ。
あ、今僕はパソコンで文章を書いているんだ。
別に書きたいものがあるわけでもなく、ただ。
ただ、なんだっけ?
思い出せない。
僕は何でこんなところにいるんだろう。
煙草に火をつける。
いい煙だなぁ。
煙を吐き出してみる。
なんか変な味がする。しょっぱい様などろどろしてる。
赤いような、鉄のような。
鉄? どっかで聞いたことあるような。
鉄。
なんだろうこれ。
なんだろ。なんだろ。
なんだろ。なんだろ。なんだろ。なんだろ。
なんだろうこれ。
煙が目にしみるな。
僕は泣いてる。
泣いているのは面白いな。
僕は笑ってる。
でも泣いてる。
いや泣いてないや。
ただ涙が少しだけ出てくるだけだよ。


プラスティックのハサミがある。
柄の部分は赤と青がそれぞれで、右利き用だから僕には使いづらいな。
「それで腕を切ってみろよ。」
嫌だよそんなの、痛いだろ。
「切った腕をさ、頭につけてみろよ。」
なんだよ。そんな痛いことできないよ。
「糊はあるよ。今年はそういうキャラでいけばいいと思うよ。」
つけては取れて、つけては取れて。
でも少し面白いかもしれない。
つけては取れて、つけては取れて。
拾うところなんて無様だろ。
つけては取れて、つけては取れて。
あれ、どっちの腕を切るんだろう。
僕は左利きだから、右腕かな。そっちのほうが困らないや。
はさみって意外と切れにくいものなんだな。
ひいてもひいても血が出るだけで。
痛い。痛い。
線を引いているだけ。
ブチブチブチブチブチブチブチブチブチ。
筋でも切っちゃったのかな。
痛くて泣いちゃうよ。
泣いてる?
いや僕は泣いてない。
ただ涙が少しだけこぼれるだけなんだ。


ムカデが僕の身体を這いずり回っている。
ガサコソうるさいなぁ。
今ちょうど手にしていたハサミでマムシを。
振り下ろす。
狙いから外れて僕の腹に刺さる。
すぐに抜いてまた振り下ろす。
トン、と意外と綺麗な音がして、ムカデは標本みたいだ。
ガサコソガサコソ。
暴れまわってめんどくさいなぁ。
気持ち悪い。触角が僕の肌をくすぐってくる。
ムカデの体温かはさみの部分があったかい。


あれ僕は今どこにいるんだろう。
パソコンで……文章を。
「ねぇ。もうすぐ駅に着くよ。」
隣に同い年くらいの女の子がいる。
とても可愛い娘だ。
「綺麗だね。」
僕は率直にその娘のことを言う。
「もう、いきなり何言うのよ。駅に降りる準備をしなさい。」
その女の子は少し照れたようにほほを膨らませそんなことを言うと自分の荷物を肩にかけている。
僕も。
ちょうど横にある荷物はきっと僕のだ。
あ、あの娘が先に行ってしまう。
待ってよ。追いつかないよ。
どんどん離れていく。
僕はたまらずホームに飛び降りる。
僕は座っている。
「ねぇ。もうすぐだよ。」
その娘はまぶたをこすりながらそういう。
僕は、うんとだけ答えると同じように目をこすってみる。
こすっても目のはれぼったさが消えない。
こすればこするほどどんどんこすりたくなる。
左目がとても痛くなってきた。
それでも欲望に勝てず僕はどんどんこする。
これじゃあ白目が溶けそうだね。
そうあの娘に言おうとしたのにいつの間にかいなくなってた。
待ってよ。
それでも目をこする手は止まらない。
痛いけど気持ちいい。
目が見えなくなりそう。
それでもいいかな。
目の無い魚だもの。
僕の目から白目が溶けて垂れだした。
大変だ。拾い集めないと。
僕はそう思いそれをかき集めようと床を這いずり回る。
「へたくそ。ちゃんとやれよ。」
「はは、馬鹿だなぁ。」
「とろま。死ね。」
「ほらほら、それで終わりじゃないぜ。」
「こいつ本当にやりやがった。気持ち悪い。」
「頭おかしいんじゃないの。」
何だようるさいな。邪魔するな。
床と床の隙間にどんどん流れていってしまう。
僕の白目が。誰か手伝ってください。
「あー気持ち悪い。」
「あいつを見てるだけで寒気がするわ。」
「こっちこないでよ! 臭いんだから。」
「あいつ今、私のほう見た。何よ、いやらしい目で見て。」
「どうせあいつ私たちで毎晩いかがわしいことやってるのよ。」
最低。
最低。
最低。
うるさい。うるさい。
みんながそんなこと言ってるから、白目が全部流れちゃったじゃないか。
目が痛い。でも気持ちいい。
痒いな、まだまだ痒い。
目の裏側が重い気がする。
もうかきむしっても何も流れはしない。
よかったこれで安心。
安心して眠ることができる。
そうして僕は電車の座席にもたれかかる。
周りの席からみんなが見てるけど知ったことじゃない。
みんな冷たい目だ。
なんて冷たい目だ。
幾何学的な円と楕円の集合。
それが茶色い世界でいくつも宙に浮いている。
煙草を口にくわえてみる。
「身体に悪いからやめましょう。」
「君、似合わないよそれ。」
「かっこいいとでも思ってるわけ?」
「不良でも無いくせに。」
「死んじゃえ、ばーか。」
みんな笑ってる。
大きく口を開けて。おなかを抱えて。
しまりの無い笑顔だなぁ。
笑って笑って笑って笑って。
口から何か出してるな。
それを拾ってまじまじと見てみる。
ムカデだ。
みんなはおなかのなかでムカデを飼っているんだ。
みんな可哀想。
ムカデは僕の手の上でもがいている。
ガサガサガサガサ。
気持ち悪い。
思い切り握ってみる。
気色悪い感覚。
手の中から緑色の液体が流れ出す。
これで代用しよう。
僕は左目にそれを押し当てて、中に注ぎ込む。
気持ち悪い、けど悪くない。
辺りが緑色に見える。
本当は世界は緑色。
暗い暗い緑色。
僕は今やっと本当の世界を見ることができたんだ。
きっと一番だ。
僕はやっと一番目になれた。
一番は特別だ。
二番や三番と違って特別な人間なんだ。
僕は特別だ。
うれしいな、僕は特別になれたんだ。
誰の特別?
誰だろう。あの娘にとって特別になれればいいな。
「こいつ、また京子さんに手紙書いたらしいよ。しかも詩を書いて。」
「きもーい。根暗。死ね。」
「京子さんおびえてたよ。可哀想に。」
「おい、ムカデ! もうあんなことするなよ。」
「これだろ、お前が送った詩集。読んでやるよ。」
「僕の大好きなあなた。」
「とても綺麗なあなた。」
「僕にとっては君は太陽です。」
「雨が降る時の音色です。」
「あなたは大切な花束です。」
「杏の咲き狂う花束です。」
「僕の大好きなあなた。」
「僕の大好きなあなた。」
「僕の大切なあなた。」
「なぜあなたと僕は一つの生物として生まれなかったのでしょう。」
「なぜあなたと僕は二つ別々の生命体とし、息をし、物を思い、熱を帯びているのでしょう。」
「僕は綺麗ではありません。」
「なぜあなたはそんなに綺麗なんでしょう。」
「僕の大好きなあなた。」
「とっても綺麗なあなた。」
やめろ。やめてくれ。二人の大切な思い出を汚さないでくれ。
みんなはどんどん口からムカデを吐き出している。
ゴボゴボゴボゴボ。
可哀想なみんな。
救ってあげたいけど僕にはムカデの退治のしかたもわからないし、いくら倒しても出てきそうだし、虫苦手だし、安易に殺すのはよくないと思うし、気持ち悪いし、たくさんいるし、僕が悪いわけじゃないし、じっとしとけばいつかなくなるだろうし。
ごめんなさい。
あ、電車が止まった。
ホームに下りよう、あの娘と一緒に。
僕はあの娘の肩をゆさぶる。
「大丈夫。私は起きてるわ。」
そういいながらまた目をこすり、目を開ける。
僕も同じように目をこすり、少し笑う。
彼女も笑う。
僕もまた笑う。
なんて幸せなんだろう。
僕と彼女は手をつなぎドアを出る。
一緒に行こうよ。
駅を出ればすぐだ。
きっともっと幸せにあふれてる。
悲しいことなんてもう何も無いよ。
見たくないものなんてもう現われはしないよ。
聴きたくない言葉なんて響かないよ。
ムカデももう追ってこない。
煙草だって控えるよ。
君と手をつなげる腕は残してあるよ。
二人でホームに下りる。
これで幸せだ。
たくさんの幸せだ。
「だよね。きっとそうだよね。」
手の先の彼女のほうに振り向く。
そしたら。
彼女は無表情で。
手を振り払い。
ただ。
「お願いだから勘違いしないでよ……大嫌いだからあなたのこと。」


電車の車輪の音がただ遠くなっていく。
僕は。