題名「優しい世界」

空が真っ赤に染まっている。あたりは既視感が漂う見知らぬ路地。
濡れている髪がさっきまでの出来事が嘘ではないことを語っている。
私はどうやら迷い込んでしまったようだ。
「優しい世界」
噂だけは聞いたことがある。
辛いことや絶望によって救済を求めている人が決まってこの場所にたどり着くという。
左手首を押さえつつ、私は路地を抜け大通りに足を踏み入れてみる。
大通りに一歩足を入れてみるとまるでその瞬間にこの世界が作られたような感覚に陥った。
空気の音が耳を通り抜け、影と赤い光が私の目に注いだ。
私はそれをなんなく享受することができた。
そして子守唄のような風をほほに感じながら、真っ赤に照らされた光景に目を奪われていった。
街灯の下で泣いている人。
ただ空をキャンパスに描いている人。
路地の端でただ呆然と座っている人。
ゆっくり流れている時と同じように、ここにいる人たちも何かしら諦観と平穏を抱きしめたような気持ちにいるようだ。
私はじわりじわりとその感覚を実感し、泣きたいような叫びたいような衝動に駆られた。
唇の震えが止まらず胸がざわりと痛みだした。
間違いなくここは私を受け入れてくれる場所だという確信を抱えながら。


私はまず、気持ちを言葉に表そうと努力を行った。
沢山の不満や不安や怒りや絶望を全て吐き出そうとした。
しかし結局最後に行き着くのは、自分の非を思い知る結論や感情論で物事を判断しすぎていた自分に対しての反省だった。


次に他のここにいる人間との交流を試みた。
しかし彼らはみんな何かしら自分の世界に落ちきってしまったところがあり、それは聖人のあるべき姿とも言えるし、廃人だともいえる。
もちろんこちらに興味を示す人間もいたことにはいたが、それは自分の人生における大切なものの代用品としてでしかなかったようだ。
私にはそういった優しさに馴染めるほど心が澄んでも追い詰められてもいなかった。


そして私はただ横になり空を眺めた。
時と関係性を持たずいつまでも赤く照らし続けるこの空。
全てを受け入れつつ果てしない距離を置く存在。
人は様々なものを神として見立ててきた。
例えば十字架で処刑された過去の偉人。
ぬぐいきれない恐怖。
偉大なる自然。
きっと私にとってはこの空こそその偶像になりうる存在なのだろう。
そう思いつつ、ふと自分の過去を思い出した。
あんなに抜け出したい、逃げ出したいと願っていた世界でも今となっては様々な出来事が走馬灯のように駆け巡り、思慕の想いさえ抱く。
私は力を抜け切ったその空に体が吸い込まれるような錯覚に陥った。


「……子!……京子!」
聞きなれた声が聞こえる。
目を開けてみると眩しいくらいの光と私の周りを囲む人影。
ああ、どうやら私は旅立つに失敗したのか。
あんなにいがみ合っていた母親の声も今では穏やかに聞こえる。
なんだか少し安心してでもやっぱりがっかりして起き上がろうと試みてみる。
しかしふいに涙が止まらなくなる。
私は何もかも本当は分かっているのだ……。


水が流れる音が聞こえる。
左手首から徐々に体が冷たくなっていく。
「良い夢が見れたな」
そうつぶやく自分の声さえ聞こえなくなっていく……。